こぐらす日記

ここは思いついたことをただ呟くところで話バラバラ気分次第

人間浄瑠璃 森村泰昌×桐竹勘十郎

森村泰昌×桐竹勘十郎 人間浄瑠璃「新・鏡影綺譚」 | 大阪市ー

 

なにかになる美術家モリムラが、文楽人形になって、桐竹勘十郎がそれを操る、という、「なんじゃそれ?」な公演の千穐楽に行ってきた。モリムラの作品は、ほぼいつでも「なんじゃそれ?」なので、企画そのものにはとくに動じなかった。いろんなものになりきってきた方なので、文楽人形にだってなれるでしょう、その気になれば。と思った。でも、人間が人形になって文楽の世界に入っても、共演?の人形たちとサイズが違って変ではないのか。ということが気になった。実際にやるほうはもっと他にもさまざまな課題を抱えての実現だろうが、ただの客側としては、文楽のあの世界に人間?でかいやろ、変やろ、というのが、まず頭に浮かぶ違和感だった。が、実際には、これはシナリオの工夫によって難なく解決されていた。

 

年に1,2回くらいは文楽劇場に行くし、勘十郎さんはとても好き。ではあるものの、今回は、そういうことよりも、なにしろモリムラのナマ催しだから観ておかないと、という観点からの鑑賞だった。とはいえ、「なんじゃそれ?」な思いはやはり強く、「いやもうアートやねえ?なかなかわからんわー」という感想になってしまう可能性もありそうな気がしていつつ、まあええか、とわりきって出かけた。

 

結果。この公演は文楽としてとても面白かった。大夫、三味線、人形遣い、しっかりほんまもんの方たちが伝統の中で演っているし、床本もストーリー、志向、ともまさに浄瑠璃。と、きちんと文楽であって、それでいて、ちょっと変わっている。人形になってる人間なんていう存在が共演しているので、それに見合う必然の新しさが生まれているのだ。そういうことから、文楽の新たな進化へのヒントを強く感じるものだった。

 

ところで、モリムラアートとしての面についてはどうかというと、鑑賞した時点では、やはりよくわからなかったのだった。が、あとでパンフレットにある勘十郎さんとの対談を読むと、なりきっていくことでなにかを見つけていくという、いつものモリムラパターンなのだと納得。

 

要約だが、

人間というのは、自分の自由意思で物事をやっているように感じているけれど、もしかしたらなにかに操られているのかもしれない。そのことを文楽という世界では人形という形を借りて見せてくれているのかもしれない。

 

という発見が語られている。これは、なぜ人形でやるのか?という謎のひとつの大きな解答になっていると思う。

 

このパンフの対談は公演のずっと前に開催された催しだったのだが、行くことができなかったものだ。でもこの対談等の予備知識なしでぶっつけ鑑賞したのも、悪くなかったように思う。