こぐらす日記

ここは思いついたことをただ呟くところで話バラバラ気分次第

アカデミー賞授賞式を見てみた

 「ゴッドファーザー」50周年ということで登場したデニーロとアルパシーノのあまりの老け具合に、びっくり。ふたりは80歳前後だけれど、いまどきの80歳はけっこう元気な人も多い。このふたりなら当然、そのけっこう元気派のほうだと思っていたので、二人揃ってのすっかりのお爺さんぶりは、ちょっとショック。

 

 「ドライブマイカー」は、村上原作ということで気にかかっている作品だが、実は未見。観ないままに、あれやこれやとさまざまな感想を読んでしまい、なんだかすでに食傷気味。配信で見ようと思えばすぐみられるわけだけれど、ほんとに500円だしてみるほどなんか?という疑念が湧いてしまっている。観ていない放送録画が山積なのに、なにもわざわざね。この監督のものは「寝ても覚めても」を観たが、他にも観たいという気にはべつにはならなかったということもあって、まあいいか感。村上原作なので、いつかは見るけれど、べつに急がない。

 

 ほかにも、ああこれはぜひ早く観たいと思う作品は見当たらなかったが、式典の構成中身は楽しめた。

 

 

 

 

NHK 韓国の夜明け光州事件

www.nhk.jp

 数年前に放送された番組だが、今回はじめて見た。ひとことで言うと、韓国人てすごいな、という思いに至った。

 光州事件の映像をこれだけしっかり見たのは初めてだし、光州事件の経過とその後の民主化運動への流れなども、改めて確認できた。正直あまり知らないままに光州事件とのちの民主化運動を頭の中で混同してしまっていたりした。そもそも、韓国の政権の流れについて生半可なので、ちょっとよくわからない説明や映像もあったのだが、それはともかくとして、光州とのちの民主化運動の映像を見ることで、韓国の民衆の高度な政治意識をつよく実感した。大戦後の分断された国の状況や独裁政権の出現などによって韓国民衆の意識は鍛えられ、こんなにも高度なものになったのだろう。その後のパククネ弾劾、そして今回の大統領選の高い投票率にしても、日本ではとうてい考えられない民の力の強さだ。

 かつて、というのは私が若い世代だった70年代頃のことだが、困惑の政治体制の下で貧しそうに苦しそうに見えていた韓国に比べ、自由で民主的なわが日本は優越していると、正直思っていたものだった。そして韓国が今や日本を追い抜く経済大国となった今も、なかなか心のどこかに巣くっているその古い観念は消え去らずにいたようにと思う、実のところ。

 しかし、いま、こうして民主化運動によって現実に国を変えた姿をじっくりみせられて、まったく考えが変わった。韓国の民衆が鍛えられ進化していった戦後何十年の間に、日本人はどうしていただろうか。アメリカとの関係を中心とする国際情勢のおかげでうまい具合に経済成長大きく成し遂げ、ついにバブルで浮かれ、結果、精神性は大きく劣化させ、汚染されきった衆愚政治を、なんと正々堂々の民主的選挙によって継続中だ。哀しい。

 戦前のことは戦後世代にははっきりとはわからないが、少なくとも戦後に限って言うと、韓国人と日本人では人間の土台の大きさ深さが違ってしまったのだなあと思う。べつに韓国のような社会運動ができればえらいと言いたいのではない。それぞれの在り方というものがもちろんあるだろう。ただ、思うのは、深い根っこのところで、負けているんだなとはっきり感じるのだ。経済だけではなく、幅広く人間的に。

人間浄瑠璃 森村泰昌×桐竹勘十郎

森村泰昌×桐竹勘十郎 人間浄瑠璃「新・鏡影綺譚」 | 大阪市ー

 

なにかになる美術家モリムラが、文楽人形になって、桐竹勘十郎がそれを操る、という、「なんじゃそれ?」な公演の千穐楽に行ってきた。モリムラの作品は、ほぼいつでも「なんじゃそれ?」なので、企画そのものにはとくに動じなかった。いろんなものになりきってきた方なので、文楽人形にだってなれるでしょう、その気になれば。と思った。でも、人間が人形になって文楽の世界に入っても、共演?の人形たちとサイズが違って変ではないのか。ということが気になった。実際にやるほうはもっと他にもさまざまな課題を抱えての実現だろうが、ただの客側としては、文楽のあの世界に人間?でかいやろ、変やろ、というのが、まず頭に浮かぶ違和感だった。が、実際には、これはシナリオの工夫によって難なく解決されていた。

 

年に1,2回くらいは文楽劇場に行くし、勘十郎さんはとても好き。ではあるものの、今回は、そういうことよりも、なにしろモリムラのナマ催しだから観ておかないと、という観点からの鑑賞だった。とはいえ、「なんじゃそれ?」な思いはやはり強く、「いやもうアートやねえ?なかなかわからんわー」という感想になってしまう可能性もありそうな気がしていつつ、まあええか、とわりきって出かけた。

 

結果。この公演は文楽としてとても面白かった。大夫、三味線、人形遣い、しっかりほんまもんの方たちが伝統の中で演っているし、床本もストーリー、志向、ともまさに浄瑠璃。と、きちんと文楽であって、それでいて、ちょっと変わっている。人形になってる人間なんていう存在が共演しているので、それに見合う必然の新しさが生まれているのだ。そういうことから、文楽の新たな進化へのヒントを強く感じるものだった。

 

ところで、モリムラアートとしての面についてはどうかというと、鑑賞した時点では、やはりよくわからなかったのだった。が、あとでパンフレットにある勘十郎さんとの対談を読むと、なりきっていくことでなにかを見つけていくという、いつものモリムラパターンなのだと納得。

 

要約だが、

人間というのは、自分の自由意思で物事をやっているように感じているけれど、もしかしたらなにかに操られているのかもしれない。そのことを文楽という世界では人形という形を借りて見せてくれているのかもしれない。

 

という発見が語られている。これは、なぜ人形でやるのか?という謎のひとつの大きな解答になっていると思う。

 

このパンフの対談は公演のずっと前に開催された催しだったのだが、行くことができなかったものだ。でもこの対談等の予備知識なしでぶっつけ鑑賞したのも、悪くなかったように思う。

 

 

 

時代を超える表現

 このあいだ、村上春樹が、なにかしらインタビューで、SNSは文章があまり上等じゃないからいっさい見ないと応えたそうで、えらく反応されていた。

 なんで70歳のお爺さんが言ってることに、そういちいち反応するんだろうなあと思うが。ちょっとなんか言ったらすぐ反応されるんだな。

 村上春樹は70年代末に登場した。70年代においては、60年代ころの音楽が「古い」「遅れてる」と感じられていた。わかってもわからなくてもマイルスデイビスを聴くことになっていたりしたが、そんな中、村上春樹の好みのジャズというのが、これが60年代臭たっぷりで、当時は「なんじゃこれ?」と思った。しかし、今となってみると、ああいった音楽こそが時代を超えた結果がわかる。

 同じような例で、荒井由実(当時)という人の曲で初めて耳にしたのは「ルージュの伝言」で、まさしく60年代臭だった。もうそれ終わったやんか、と70年代真ん中では感じた。ユーミン本人の姿をまだ見たことがなかったので、てっきり、60年代ポップアイドルみたいな人かと思っていた。もちろん「ふる、、」と思った。が、そういいながら、なぜか気が付くとギターコードブックかなんか買ってしまっていた。

 ところが、その表紙の写真の彼女のスタイルが、あくまで当時の若者ファッション感覚からいうとだが「そこそこ金あるおばちゃん」という感じで唖然とした。50年代の映画に出てくる年増っぽい感じだ。当時はみんなジーンズにTシャツなので、それはかなり変だった。しかし、そういった感覚は70年代当時特有だったのだ今思えば。

 60年代的で古いのではと思ったユーミンの曲は時代を超えたスタンダードになったし、あの、おばちゃんかいなと思ったファッションは今見ると時代というものを感じさせないものだった。

 で、村上やユーミンのような人は時代に振り回されていないんだなあ、と思う。時代に振り回されず自分に必要なものだけチョイスしていく。だから結局時代を超えていく。普遍を語れる。

ちょっと言い過ぎ?

 でもまあそんなわけで、ああそうか、SNSって時代を超えないのかもなあ、と、実は村上主義者である私は思ったりする。

落語はあんまり好きじゃないのだとやっとわかった

 こうしてすっかり年寄りになってしまった今、自分はあまり落語が好きではないことに気がついている。もともとうすうす感じてはいたのだが、あまり人に言えないことのような気がするし、自分でもちょっとそれはなんだかなと思われたので、気がつかないふりをしていたのだ。

 聴かず嫌いではないし、聴けば笑えるときには笑いもした。人気が高かった枝雀は苦手だったが早口の仁鶴はとてもよかった。ああ東京の落語はちょっと無理だ。というように、好き嫌いができる程度には、寄席にはいかないものの、放送や音源で普通に接していた。

 しかしそれは落語も聴いて知っておかないとなというお勉強的な思いからに過ぎなかった。やはり有名な落語ネタを知らないでいては不味いだろうということであった。で、それに関してはさすがに年数とともにそこそこ格好はつくだろうという線に達してきただろうと思われ、ああだったら、もう別にわざわざ落語を聴かなくてもいいよな、といつかしら思うようになった。

 とはいえ、やはりそういうことを堂々言うというのも我ながらどうしたものだろうと思わなくもなく、そんな思いにタイトルが響いて「落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ」という本を読んでみたのだった。

 これはとても面白い本だった。「オチ」が面白くない理由というのが書かれていて、目ウロコ、なるほどなあだった。

 読み物として面白い本であり、そして落語の面白さもあれこれの方向から教えてくれていた。が、しかし、読み終わってもやはり、私のココロは落語に冷淡。

 

女性画家が少ないのはなぜ

 ツイッターで好きな画家を10人というハッシュタグがあったので、やってみたところ、気がついたことがある。10人とも男性画家だということ。女性画家は出てこないということ。外国画家でも国内画家でも同じく。

 

 それは考えてみれば仕方がないことだ。そもそも女性画家の絶対数がものすごく少ない。国外でも国内でも同じだ。

 

 現代、世界的に非常に大きな成功を収めている女性美術家に草間彌生がいるが、もしかして、彼女が初めてなのではないか?こんな具合にどでかく成功した女性美術家って。世界レベルでみてもちょっといなかったのではないか?

 

 女性画家がこんなにも少ないのは、社会が女性画家を育てなかったという歴史状況によるのはもちろんなのだが、しかしそれだけなのだろうか? 女性作家や女性音楽家というのも少ないが、画家ほどひどくはないのではないか。どうしてこんなにも少ないのだろうか。

 

 絵を描くというのは実はかなりの体力腕力仕事なので、その限界が関係しているかもしれない。これはいま思いついた具体的な理由のひとつ。他にもあるかもしれない。あるような気がする。

 ワクチン接種の副反応問題を語られるときに出る「接種がもたらす利益がリスクを上回る」という言葉が私には理解不能で不安だ。それは、だれにとっての利益とリスクなのか、ということだ。世間のみなさんはいったいどう受け止めているのだろう。

 割合は少ないというが接種で亡くなった人も現実にいるのだから、私一個人にとっては、死ぬか死なないか利益とリスクは五分五分ではないか。リスクを負う可能性のほうが圧倒的に低いと言われても、低いほうの可能性が自分の場合に現実にならないとは限らないだろう。だから、自分にとっては一か八かの五分五分だ。  

 

 利益がリスクを上回るというときの利益とは何かリスクとはなにか?

その1

利益は、コロナに感染しにくくなる感染しても重症化しにくくなる

リスクは、副反応が起こる。軽いものから重篤や死の場合も

その2

利益は、市中にコロナが、蔓延しないという状況

リスクは、市中にワクチン副反応者が多くなること

 

個人にとっては、その1のお話なのだが、

ニュースで言ってるのは、その2のお話だ。

 

平気で全体主義

これに平然と従う日本の状態に驚く。

言われれば素直に摂取

言われれば素直に