こぐらす日記

ここは思いついたことをただ呟くところで話バラバラ気分次第

相田みつを批判とはなんだったのか

 

 本棚というか本の置き場所が完全に崩壊しているので、なんとかならないものかとあれこれ何かとやってみている。それで、ずっと昔に読んだまま放置してあった本がでてきたりするので、おもいつきでちょっと開いてみる。きょうはこの本。

 

本を読む前に

本を読む前に

  • 作者:荒川 洋治
  • 発売日: 1999/08/27
  • メディア: 単行本
 

 

 荒川洋治は詩人。でも詩はなんだか棒線が引いてあって面白いなと思ったもののそんなにたくさんは読まなかった。いっぽう書評本のようなエッセイ本は面白いので何冊も読んだ。これはその一冊。大衆文学に興味がないというところにとても賛同。興味深い本を何冊も教えてもらったと思う。

 でも「本を読む前に」には興味深いというわけではない話題の本の話もあった。相田みつをの本だ。「本を読む前に」が出版された前世紀末ころ、相田みつをの一大ブームが巻き起こり、この荒川洋治だけではなく多くの教養ある人たちが拒否反応を示した。彼らは、相田ワールドなど単純で陳腐で詩歌とか文学とか言えたものではない、というような見解だった。

 私自身も相田みつをが苦手だ。なにこれ?だ。しかし、そうどこもかしこも教養高いわけではない私の生活範囲には、相田みつをが好きだというような人たちも少なからずいたので、そんな批判的なことを口にしたことはなかった。それに、私はべつだん人の気持ちを慮るようなたちではないものの、人が感動を寄せているものにけちをつけるのもいやだなという気がしていた。それで、相田はきらいなのだが、相田現象を批判する教養ある人たちにもなにかしらの違和感を抱いていた。「なんかそれ、ちゃうやろ?」と感じていた。

 いまになってこの荒川洋治の批判を読み返してみて思ったのは、というか、はたと気が付いたのは、「別にあれって文学とか詩とかじゃないならないでよいのだろうし、それがなにか?なのではないのか」ということだ。「人間だもの」だろうがなんだろうが、なにかを述べておられる以上、言葉であることだけは打ち消せない。だから、つまり、なにかああいった、文学だのとは別の、言葉による、ある種の表現形態であるのだということならば、それならそれでまったくよいのであって、それに対して文学だの詩歌だのの方面の教養ある方々が、ぐだぐだ文句を言う必要はまったくなかったのではないか?ということだ。いくら売れまくって儲かっていそうだからといっても。

 あの批判って、ちょっとズレてたんじゃないですか~?ということだ。

いやいやいや言葉というものはだなっ!!

とか言われるかもしれないが、そういうことを言い出すのって、もしかして、言葉方面の表現者教養人だけではないだろうか? 同じようなことが視覚表現や聴覚表現の世界でも起こるだろうか?  

 独断かもしれないが、たぶん起こらないだろうと思う。ハイレベルだろうがそうでなかろうが、多くの人々が受け入れたら、それはそれとしてみとめざるを得ないことを美術家や音楽家はよく知っていると思う。好き嫌いは仕方がないが、表立ってわざわざ批判するようなことではないとわかっていると思う。

 しかし、これ、言葉の表現者の狭量さとか品性の無さのせいなのか、あるいは言葉というものの持つ性格のなせることなのか、そこは私にはわからない。