こぐらす日記

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読書感想文をなぜ書かせるのか

 ツイッターで、「読書感想文を書かせる必要はあるのか?」という問いが、地味目ながら話題になっている。私は自分が生徒のころ文章を書くのがいやではなかったので、そういうことを考えてみたことがなかった。長じてからは人に感想を書かせてそれを添削するような仕事をしたことがあり、非常にひどい日本語たちにひぃひぃ言っていたこともあったのだが、それにしても、こんな感想なんて書かせる必要があるのか?と考えてみたことはなかった。とにかくやらねばで仕事に追われていたのだと思う。

 しかし、いわれてみれば、確かに、なんで感想文を書かせるのだろう?

 

 おそらく、読書をさせたいということがまず前提にあり、それで、読書をした証として感想文を書かせるということを思いついたのだろう。あれ読みました、と言われても、それでほんとに読んだかどうかを確認する方法はない。だから、まあ読まないと感想は書けないであろうから、感想を書いたということは読んだということであろうから、それで感想文でも、ということなのではないだろうか。

 しかし、それならば、感想ではなく、レポートをまとめればよい。どんなことが書かれてあった本なのかのレポートだ。それは、物語なら物語のストーリーでもよいし、筆者がどのように何を語りつづっているのかの説明でもいいだろう。

 そういえば「レポートを書く」ということを、私の場合だが、大学生になってはじめて求められたのではなかったかと思う。だからなにをするのかよくわからなかったように思う。なぜ高校までに、読んだことや聴いたことをレポートするという学習がいまいち成されていなかったのだろうか。感想文は書かされていたのに。感想よりもまず、何書いてあるかだろう?問題は。何書いてあるかわかることが読んだということだろう。

 国語教育では何が書いてあるかを語らせるのではなく、そこすっとばして感想を述べよと言っていたわけだ。いや私はずいぶん昔の生徒だが、読書感想文など強制しているところから想像するに今でもそうなんだろう。

 

 感想を書くというのは、もはや「表現」というレベルの行為である。だからたとえば破壊的な詩みたいな文で感想を述べたってかまわないはずだ。なんだかバクハツな文章だけど気持ちわかる!みたいな感想文があったってかまわないはずだ。でも実質だめだろう?それでは。

 なぜだめかというと、やはり読書感想文は国語科教育であって表現行為ではないからだろう。しかししかし、感想を書くというのは実は表現行為なのだ。

 

 国語科教育における読書感想文の目的はなにか?

 本を読ませること

 文章をまとめさせること

調べてみたわけではないがおそらくそのあたりだ。

そもそも本を読ませるために感想文を書かせるというのもどうかと思うのだが、いまそれはおくとして、この二つの目的を本当に満たせるのは、「感想を書くという表現行為」をさせることではなくて、「なにが書いてあるかのレポート」をさせることだ。

 なお読書感想文のコンクールという既存文化については、書きたい人は書いて賞レースに参加すればよいので、そのことを否定する必要はべつにないと思う。しかし国語科教育の一環としてそれを強制するのはおかしなことだ。

 ところで、ことは読書感想文だけではなく、学校で書かされる「作文」というのがそもそもおかしい。先にも言ったように書くのがいやではなかった私は作文でそう困らなかったが、困っていた人はたくさんいた、何書けばいいの?ということだ。

 作文というのは、たとえば、夏休みにあったことを書いてみましょう、とか言われて、「海に行ったり、おばあさんの家に行ったりしました。」みたいなのを書いているとだめと言われる。海に行ってどんなことが楽しかったかとかおばあさんと久しぶりに会ってうれしかっただとか、そういった、つまり思いとか視点とかを述べないといけないのだ。もちろん、それ、表現行為だ。

 「文章を書く」ということが国語科の学習内容であるのは当然だが、「表現行為をする」というのは、ちょっと違うのではないか。

 「文章を書く」という学習の具体的な内容を再検討すべきだと思う。