こぐらす日記

ここは思いついたことをただ呟くところで話バラバラ気分次第

『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』 を観た

 聖職者の性的虐待を告発する映画。数人の被害者とその人生生活を群像劇的に語りつつ、彼らが訴訟を実現していく時間経過の中でのそれぞれの葛藤を描く。また、その際の彼ら同士の心の出会いが良い感じで、シリアステーマながら物語が重くならないバランスを作っている。という、やりたいことがとても盛りだくさんでありながら、とてもよくまとまっていて、脚本すごいなあと思った。昔こういう作られかたの映画ってなかったように思う。

 でもその昔に映画ファンだった者からすると、映画としては、あくまで映画という映像芸術としては、だけれど、そんなに残らない感じではある。いろんな映画があっていいので、それはそれでいいだろうけれど。

 

 この映画が告発した問題は、社会的にみて犯罪的な行いを聖職者が犯していて、それが犯罪として扱われずにいたことだ。少なくとも早くに断罪されていれば被害者は減っただろう。これは本当に告発され、問われるべき問題だ。

 どうして犯罪として告発されずに過ごされたのだろうか。聖職者の地位のせいだろうか。それはあるだろうが、実は地位うんぬんではなく、多くの場面でこういう問題が告発されずに過ごされて被害者が苦しんでいるという問題が生じていることが、最近にニュースなどみていてもわかってきたようだ。

 どうして、犯罪的な行為が放置されるのだろうか。

 

 映画のテーマからずれているかもしれないけれど、告発された幼児性愛者のプレナ司祭が、性的虐待の事実を認めていて、自分は幼児性愛という「病気」なのだと言ったシーンが気になった。ほんとに病気でどうしようもないんだよ、という気弱な表情だ。

 病気なのだとしたら「治療」してもらいたいが、「治療」はしていないようだし、そもそも幼児性愛が精神障害なのかどうかはなかなか難しい問題らしい。

 個人の性的な志向というものそのもの、志向を抱くことそのものは、それが一般的視点からは異常であろうとも、個人の自由だろう。幼児に性愛を抱いていても、ただ抱いているだけなら、人の勝手だ(気持ち悪いが)。しかし実行に及んでしまうと相手にはいい迷惑となる。これは幼児性愛に限らず、どんな場合でも同じことだ。自分の手前勝手な欲望を押し付け実行に及んで、病気なので、と言われても困る。

 がしかし、人迷惑な欲望を抱いて、それを自分ではコントロールできずにいる本人としては、ではどうすればいいのだろう? 

 なにかしらで自分ではどうしようもないある強い思いというものは、誰にでもあるのかどうかはわからないが、自分にはあったよなと私は思う。がそれが自分ひとりで完結することならなんら問題ないし、相手があることであってもその相手が受け入れられることならば、これもそれ自体はいい。でも相手が受け入れられないことだと、どうすればよいのだろうか。

 そういう、どうしようもない人迷惑な欲望を実行してしまう人間がこの世には存在しているという現実があるが、それを人の世はどうにもできないままでいる。「どういようもないもんなあ」と。犯罪的行為の犯罪性を見過ごしていくのは、その「どうしようもないからなあ」という考えからかもしれない。なんというか極端な話「こういうの犯罪だっていってたら切りないし」というような感覚。

 修正される時代はくるのだろうか、そういう感覚。